ワコールボディブックのコンセプト「誇れる自分」についてインタビューする連載・3人目は、京都の大人気中華「楽仙樓」2代目を受け継いだ三原伸子さん。自分らしく誇れる働き方、家族のあり方などを伺いました。
なりたかった通訳
でもやってみれば「合わなかった」
「生まれ育った中国を離れ、一家そろって父の故郷・日本に来たのは、4歳のときでした。自然と日本語は覚えていき、中国人であることも隠していたけれど、母国語の中国語を忘れてしまうのは、なんだかもったいない気がして…。京都から通える中国語の専門学校を探し、そこで2年間勉強したあと、中国に留学しました。
そのころなりたかったのは、通訳でした。仕事として少しかじってはみたものの、右から左にそのまま話を伝えるというのは、どうにも私には合っていなかった。とはいえ、学生結婚で子どももすでにいた私は、とにかく仕事をしなくてはなりません。事務職についてみても、これもまた面白くない。中国とのやりとりや出張もあったのですが、同じことの繰り返しも合わなかったようなのです」
日本でふたりめの子どもを産んだあと、大阪で傘のOEMメーカーに勤めた三原さん。そこは、今までやってきた中国語のスキルを生かすだけでなく、本来もっていた企画力や交渉力も活かせる職場でした。そして何より、初めて心から「楽しい」と思える仕事との出合いがありました。
お店を継ぐのは絶対無理
だと思っていました
そのころ、三原さんが気になり始めたのが、46歳で京都に中華料理店を開き、休む間もなく働き続けてきた母の体調でした。子どもだった三原さんを連れて来日するとき、「一切の困難を克服する」と自らに誓い、それを実践してきた母も、当時60歳前。見かねた夫が「お前がお店を継ぐしかない」と言ったことから、三原さんの仕事は急展開します。
「夫にそう言われるまで、お店を継ぐ気はまったくなかったんです。あんなしんどいの、絶対無理やわ、って思ってましたから。母から継いでほしいと言われたことも、ありません。でも、こんなにファンの多い母の餃子を、ここで途絶えさせてはもったいない。それに、母の性格からいって、うまく一緒にやっていけるのは、私しかいない。夫はそれをわかって、『お前が継ぐしかない』と言ったのでしょう。こうして今から14年前、京都にある楽仙樓を継ぎました。35歳になるときでした」
三原さんがまず手をつけたのは、店を徹底してきれいにすること、居ごこちをよくすることでした。
「店を清潔にすると、さらにお客さんが増えていきました。それで机の配置を変えるようになったり、テーブル席を増やしたりするうち、明るく風通しのいい店に変わっていきました。今では、テラス席も人気です」
「また、忙しくてこれまで手が回っていなかった母に代わって、在庫の整理をし直したり、収納方法を変えたり、さらには通販も開始。2021年にはテイクアウト専門店(手包み工房 楽仙樓)もオープンさせました。
そうしてお店がうまく回るようになると、従業員も生き生きしてくるし、店の雰囲気がよくなる。そんな変化を実感する毎日でした。私の経営は、前に進みながら変えていくスタイル。スタッフは中国人が多く、その国民性なのか、団結力もあるし、私が新しいことに挑戦し続けても、嫌な顔をしないし、柔軟性高く対応してくれます。すべて自分でやるのでとにかく忙しいし、しんどいこともあるけど、そのぶん達成感もあります」
一見同じことの繰り返しでも、毎日変化していて、毎日前に進んでいる。そんな仕事のスタイルを楽しみ、誇れるようになった三原さん。「自分の考えてること、やりたいことを思いっきりできる。それが、私に自信を与えてくれるのだとわかりました」
*後編では、お店の成功の先に考えているビジョン、そして大人気商品の火鍋の楽しみ方を伺います。
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三原伸子(みはら・のぶこ)
1975年、中国・ハルピン生まれ。4歳で家族と共に来日。母・恵子さんが京都で創業(1994年)した中華料理店「楽仙樓」を、2009年に2代目として引き継ぐ。2021年にはテイクアウト専門店「手包み工房 楽仙樓」もオープン。
HP:https://www.rakusenroh.jp/
YouTube:https://www.youtube.com/@user-dc4qj2cc2t
撮影/香西ジュン
デザイン/WATARIGRAPHIC