
ハダカより非常事態
「一糸まとわず」は、何も着ていないという意味。以前取り上げた「はだか」というコトバを強調したもので、「真っ裸」「素っ裸」「丸裸」「赤裸」「全裸」の同義語といっていい。重要なのは、「はだか」がカラダ寄りのコトバであるのに対し、「一糸まとわず」はシタギ寄りのコトバであるということだ。
一糸は「1本の糸」を意味するが、「ひとすじの糸」という美しい言い方もある。布はもちろんのこと、ひとすじの糸すら身につけていない状態が「一糸まとわず」であり、まずはそのイメージ喚起力に注目したい。何もまとっていないことを表現するのに、まとった姿をデフォルトとして想定し、即座に否定する。そこには「最低でも一糸まとうのが常識なのに、なんと、何もまとっていないじゃないか!」という驚きが隠されているのである。
したがって「一糸まとわず」は明らかに非常事態だ。早く普通の状態に戻したいし、何か着なければ大変なことになる、というようなドラマチックな心の叫びが感じられる。夏にハダカなのはわりと当たり前のことなので、寒い季節にこそ生きるコトバといえるかもしれない。
一丁と一糸の違い
では、「一糸まとった」とは、どんな状態のことだろうか。一糸は「きわめてわずかなこと」をたとえるコトバでもあるから、糸そのものではなく、何か繊細なアイテムを想像してみたい。たとえば、軽やかで透明感のあるレースのランジェリーであれば、一糸というコトバにふさわしいような気がする。
一糸はまた、分量や割合の単位でもある。10分の1が「一分(いちぶ)」、100分の1が「一厘(いちりん)」、1000分の1が「一毛(いちもう)」であり、10000分の1に至ってようやく「一糸(いっし)」なのである。パンツ一丁、豆腐一丁、鉄砲一丁、出前一丁のように豪快に使われる「一丁」とは相反する、デリケートな世界であることはいうまでもない。
ちなみに、小さな分量を表す単位は「一糸」で終わりではない。「一忽(いちこつ)」「一微(いちび)」「一繊(いちせん)」「一沙(いちしゃ)」「一塵(いちじん)」「一埃(いちあい)」と、ミクロの世界はまだまだ続いてゆく。漢字のニュアンスから、とにかく細かいことだけは伝わってくるのが面白い。日常では見かけないコトバだが「一繊(いっせん)」や「一沙(いっしゃ)」などは、ランジェリーを数えるときに使えそうである。
屋外ではどうすべきか?
「一糸まとわず」を辞書で引くと、いろいろな用例が出てくる。もっとも模範的な例文だなと思ったのは「地震に驚いて風呂場から一糸まとわず飛び出した」というもの。他方、もっともおしゃれだと思ったのは「彼女は一糸まとわぬ姿でソファに横たわっていた」というイタリア語辞典の例文。物怖じしない堂々とした美女とモダンなインテリアが目に浮かぶようだ。
織田作之助の小説『夜光虫』(1947)には「一糸もまとわぬ素裸の娘が、いきなり小沢の眼の前に飛び出して来たのである」という雨の夜のシーンがある。終戦後、大阪に戻ってきたばかりの小沢十吉(29歳)は、とっさに軍隊用レインコートを脱ぎ、彼女にぱっと着せてやるのだった。
また、谷崎潤一郎の小説『痴人の愛』(1924)には「見ると彼女は、マントの下に一糸をも纏(まと)っていませんでした」という夜の浜辺のシーンがある。生真面目なサラリーマンの河合譲治(28歳)は、カフェで見初めたナオミ(15歳)を育てあげて妻にするが、やがて彼女の小悪魔ぶりに翻弄されていく。この場面のナオミは、借り物らしい黒いマントを引っかけた姿で男たちと散歩しており、これを目撃した譲治は激怒するのだった。
軍隊用レインコートと黒いマント。夜の屋外での「一糸まとわず」には、大きめの上着が似合う。雨や水に強い厚手素材なら、いっそう安心であろう。
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相川藍(あいかわ・あい)
言葉家(コトバカ)。ワイン、イタリア、ランジェリー、映画愛好家。
好きなイタリア語は「スプーニャ(=スポンジ)」。ずぶ濡れになることを「スプーニャになる」といい、浴びるほど酒を飲むことを「スプーニャのように飲む」という。
からだをスポンジにたとえるなんてカワイイ。