今月のコトバ「別腹(べつばら)」
文/相川藍(あいかわ・あい)
イラスト/白浜美千代
別腹はしあわせな魔法
大辞泉によると、別腹とは「これ以上は食べられない満腹状態でも甘いお菓子なら食べられることを、別の腹に入ると言った語」である。「甘いものは別腹」は、スイーツ好き女子の食後の常套句であり、変化球としては「ラーメンは別腹」「イケメンは別腹」などという使い方もされる。
別腹のメカニズムは解明されており、お腹がいっぱいの状態でも、おいしそうなものや自分の好きなものを見ると、脳内で食欲増進ホルモンが分泌され、胃の内容物を腸に押し出し「別腹スペース」をつくるのだという。「デザートはいらない」と断言したのに、甘い香りを漂わせた実物を目にすると「やっぱ食べる」と言い出す人がいるが、ホルモンのせいなので許してあげてほしい。
別腹の反対語は「腹八分目」であろう。まだ食べられるのに控え目にしておこうというのだから、なんと禁欲的な言葉であることか。以前、私の好きなレーシングドライバー(日本人)が対談で「腹八分目の意味が全然わかんない。なんでそこで止めなきゃいけないわけ?」と怒っていたことを思い出す。その真っ直ぐさに私は激しく共感し、ますます彼のファンになったのだった。まあ、冷静に考えれば、レーシングドライバー並みの運動をしていない限り、腹八分目を心がけたほうが健康にはよさそうだけど。
朝食にスイーツを!
類語としては「酒に別腸(べっちょう)あり」というのがある。「酒には酒の入る別の腸がある」という意味で、18世紀の中国の通俗語辞書に載っている。別腹の辛口編といっていいだろう。一方、16世紀のフランスの作家ラブレーは「食欲は食べているうちに出てくる」という名言を生み出した。この言葉を私に教えてくれたのはイタリア人だ。ワインを飲みながら前菜などつまんでいると、たしかにそういう楽観的な気分になってくる。
だが、調子に乗って前菜、パスタ、メインと完食しているうちに、デザートが本当に食べられない非常事態に陥ることもある。別腹にも限度があるということだ。甘いお菓子は、できればお腹がすいたときに食べたいものだと思うが、イタリアに行けば、それは朝食で堂々と実現できる。イタリアの朝食は、甘いクロワッサンにカプチーノが定番であり、ホテルの朝食でも、デニッシュや焼き菓子のオンパレード。ここは天国ですかと言いたくなる。
イタリアは、今年3月に米ブルームバーグ社が発表した「健康的な国ランキング2017」で第1位に輝いた。平均寿命、栄養状態、健康リスクなどのデータを元に算出された結果らしいが、日本は残念ながら第7位。まだまだ日本人はワインやスイーツの摂取が足りないのかも、と妄想する次第だ。
長寿のひみつも別腹?
4月15日、世界最高齢のイタリア人女性、エマ・モラーノさんが117歳で亡くなった。19世紀生まれの最後の生存者でもあった彼女の晩年の食生活は「生卵を毎日2個とビスケットとはちみつ」。ヘーゼルナッツ入りのチョコレートや自家製グラッパも好んだようだ。117歳の誕生日には、白いショールを肩にかけたおしゃれな姿で「歯がないからあまり食べないわ」と言っていたが、ビスケットはちゃんと食べていたようである。これはつまり、一種の別腹ではないだろうか。
彼女は若い頃に結婚していたが、夫が暴力をふるう人で苦労したそうだ。子供も一人いたが、幼い年で亡くしてしまったらしい。長生きの秘訣は「薬を服用しないこと」「誰にも支配されないこと」「未来をポジティブに考えること」。長寿というと、孫やひ孫に囲まれたおばあちゃんを想像するが、介護を依頼しながら一人暮らしを貫いた彼女は、型にはまらないかっこよさではないか。エマ・モラーノさんは、別腹以前に、別格な存在であった。ご遺徳を偲び、哀悼の意を表したい。
相川藍(あいかわ・あい)
言葉家(コトバカ)。ワイン、イタリア、ランジェリー、映画愛好家。
好きなネット用語は「パンくずリスト」。自分が今どこにいるのかを示す階層表示のことだが、ヘンゼルとグレーテルが森で迷子にならないよう通り道にパンくずを置いていったエピソードに由来すると知り、キュンとした。