今月のコトバ「内臓」

文/相川藍(あいかわ・あい)
イラスト/白浜美千代

今月のコトバ「内臓」

生命の主人公は内臓

内臓は、心とつながっているそうだ。「肝(きも)」「腑(ふ)」「腸(はらわた)」は、内臓を表す言葉であると同時に「心の奥深いところ」をも意味する言葉。「度肝を抜く(どぎもをぬく=ひどくびっくりさせる)」「肺腑を衝く(はいふをつく=深い感銘を与える)」「腸が煮え繰り返る(はらわたがにえくりかえる=我慢できないほど腹が立つ)」などのことわざは、内臓が激しい感情を生む場所であることの証明だ。

『内臓とこころ』(河出文庫)という本には「内臓の復興が情感を育てる」というようなことが書かれている。からだは「内臓系」と「体壁系」に分けられるが、生命の主人公は、あくまでも食と性を営む内臓系。感覚と運動にたずさわる体壁系は、文字通り手足に過ぎない。なのに私たちは、目につきやすい体壁系にばかり注意を注ぎ、内臓系をおろそかにしているというのである。

内臓を軽視していてごめんなさいと言いたくなる。でも逆に、一度気にし始めると果てしなく気になってしまうのも内臓だ。自分のからだなのに、どうなっているのかわからないし、かといって積極的に見たくもない。したがって、巷に流布しているイメージに影響されやすい。自分の肺は真っ黒なのではないか、自分の血液はドロドロなのではないか、と悶々とするのである。

膵臓は君が食べてもいいよ

しかし、最近は状況が変わってきたと思う。私たちはもはや、内臓から目をそらしてはいない。今年の本屋大賞で第2位に輝き、50万部を突破した『君の膵臓をたべたい』(双葉社)という小説がある。著者インタビューによると、グロいタイトルは売れないと言われ、最初は別タイトルにする予定だったらしい。けれど、結果的にこの本は売れた。ライトな青春小説なのに、著者は高校生のヒロインに『(私の)膵臓は君が食べてもいいよ』と自然に言わせてしまう。冗談っぽいセリフだが、冗談ではない。

こんなタイトルの小説がヒットし、多くの読者を泣かせたのは「内臓の復興が情感を育てる」の好例ではないだろうか。『anan(アンアン)』だって「腸で超やせ!」とダジャレで特集を組んでいる。一見軽いノリで、オープンに内臓を語ることのできる時代になったのかもしれない。

内臓環境は共有できる?

私たちの内臓環境は、抗生物質の乱用により、細菌の多様性が失われているという。何とかしなければいけない。というわけで、アメリカではプロバイオティクスという微生物の粉末カプセルの摂取が流行しているという。えー、それはグロいんじゃないの?と一瞬思ったけれど、微生物という言い方が怖いだけで、乳酸菌と言いかえればごくごくポピュラーだ。

最近はいろんなものに乳酸菌が入っていて、手軽に摂取できる。小松菜奈がCMで「乳酸菌ショコラ」を食べていればマネしたくなるけれど、この場合は乳酸菌より小松菜奈の吸引力が強いような気もする。世界最先端の研究者、落合陽一の主食が「つぶグミ」であると聞けば、なんだかステキだわと思うし、菅田将暉が牛乳好きと聞けば、やっぱ牛乳だよね!と流される自分がいる。才能や美貌はなかなかマネできるものではないが、食生活は比較的マネしやすい。憧れの人の腸内環境に近づくことなら、できそうな気がしてくる。

『君の膵臓をたべたい』は、志向性の違う2人(平たくいえば草食系男子と肉食系女子)が互いを理解しあう話ともいえる。初めて一緒に焼肉屋へ行くシーンでは「僕は主に肉を、彼女は主にホルモンをもくもくと食べる」だったのが、その後のモツ鍋屋では、仲良くひとつの鍋をつついている。男と女の関係も、キモがキモであることをキモに銘じておきたい。

相川藍(あいかわ・あい) 言葉家(コトバカ)。ランジェリー、映画愛好家。最近いいなと思ったのは、映画「暗くなるまでこの恋を」で妻(カトリーヌ・ドヌーブ)の裏切りに気づいた夫(ジャン=ポール・ベルモンド)が、彼女の下着を次々と暖炉で燃やすシーン。