香りの好き嫌いは情報や環境で変わる

特集/においと香りと人のからだ

先生/東原和成
(東京大学大学院農学生命科学研究科 教授)

----香りをかいだ瞬間、過去の出来事を思い出した経験、ありませんか? 嗅覚は視覚や聴覚とは異なり、本能や情緒、記憶を司る大脳辺縁系の扁桃体(へんとうたい)や海馬(かいば)にいち早く情報が伝わるため、記憶や情動と密接に結びついているのです。だからこういった現象が起こるわけですが、私たちは好きな香り、嫌いな香りをどのように判断しているのでしょうか。生物化学、細胞生物学、神経科学、分子生物学、有機化学など、さまざまなアプローチと視点から嗅覚を研究している東原和成先生に、香りのメカニズムを伺いました。

においに対する好き・嫌いは「経験」が大きく影響

においの正体は、「におい分子」と言われる分子量約300以下の低分子化合物です。分子構造によってにおいの種類や強さが異なるのですが、においの成分となる分子は数十万種類あると言われています。この膨大な数の分子を、どのように感知・識別しているのかというと、まず、嗅上皮(きゅうじょうひ/鼻腔上部にある粘膜)に広がって分布する嗅細胞の嗅繊毛(きゅうせんもう)という場所で、におい分子を感知します。すると、嗅細胞が電気的に興奮し、その信号が脳に伝わり、においを認識しているのです。嗅繊毛にあるにおい分子をキャッチする嗅覚受容体は、ねずみや犬では800〜1200種類、チンパンジーや人間などの霊長類には200〜400種類ほどあります。

ひとつのにおい分子に対し、いくつかの嗅覚受容体が反応することでにおいを感知するのですが、においの濃度が変わると反応する嗅覚受容体の組み合わせも変わります。このように、組み合わせが変わることで、数十万種類あるにおい分子を識別しているのです。そして、感知・識別すると同時に、におい分子がもたらす電気刺激が大脳辺縁系に伝達され、喜怒哀楽などの感情と結びつく。ここではじめて私たちは、そのにおいが好きか嫌いかを判断しているのです。判断基準は、育った環境などを含めた「経験」が大きく影響しています。

好きな香りが、ある日突然嫌いになることも

フランスの研究グループが、妊娠中に甘い香りが特徴の香辛料アニスを使った料理を食べ続けたグループと、食べないグループに分け、生まれてきた子どもにアニスをかがせる実験を行ったところ、アニスを食べ続けたグループから生まれた子どもは、アニスのにおいを嫌がらなかったという結果が出ました。胎児のころに経験したことも、好きか嫌いかに影響を与えていたのです。においに癖のある納豆やチーズを食べて育った人は、それらを不快なにおいだとは思いませんが、食べずに育った人は不快に感じやすいように、育ってきた環境によって食べ物のにおいに対する好き嫌いが異なります。また、おなかいっぱいのときは、大好物の香りでも不快に感じたり、好きだった牡蠣にあたってから牡蠣の香りが嫌いになったなど、同じにおいでもにおいをかいだときの状況や記憶、体調によって感じ方が変わります。

さらに、納豆のにおいは大好きでも「3日間履いて洗っていないソックスと同じにおいがする」といわれたら、不快に感じることがあるように、情報に左右されやすいのも香りの特徴です。その逆もしかり。ソムリエが「コンクールで金賞をとったワインですよ」といえば、いい香りだと思ってしまうのです。また、毎日同じにおいをかぎ続けることも、感じ方が変わるきっかけになりうる。このように、さまざまな経験によって香りの価値が決まるため、先天的に特定の香りが「不快なもの」と決まっているわけではありません。だから香りの好き嫌いには個体差があり、また変化しやすいのです。

----個体差があるということは、たとえば、一般的にリラックス効果があると言われているラベンダーの香りも、ラベンダーが苦手な人にとっては、リラックス効果は期待できないということになります。となると、リラックスしたいと思ったときは、どんな香りを選べばいいのでしょうか。次回、日常生活に香りをどう取り入れるのが効果的なのかご紹介します。
東原和成

東原和成 東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室 教授。東京大学農学部農芸化学科卒業後、ニューヨーク州立大学で博士号取得。デューク大学医学部博士研究員、東京大学医学部助手、神戸大学助手などを経て、現職に。においやフェロモンの研究で、文科省若手科学者賞、日本学士院学術奨励賞、井上学術賞など数々の賞を受賞。

取材・文/山崎潤子
イラスト/はまだなぎさ