新訳からだ辞典「パンツ一丁」

2018年9月26日

文/相川藍(あいかわ・あい)
イラスト/白浜美千代

HEART

今月のコトバ「胸」

今月のコトバ「胸」
胸はカラダでありココロである
当コラムとしては「胸とは乳房のことである。以上」ときっぱり言い放ってみたいところだが、胸という言葉は、実のところ、かなりの広範囲を指す。一般には「首と腹の間の部分」が胸と定義されており、なんだか大雑把だなと思う。「胸の鼓動」といえば心臓のドキドキであり、「胸を病む」といえば肺の病気を患うこと、「胸焼け」といえば胃や食道の不快感のことなのだ。

さらには「胸を打つ」「胸が騒ぐ」「胸が踊る」「胸が熱くなる」「胸を焦がす」「胸が張り裂ける」などという言い方もある。これらはもはや、カラダではなくココロの領域ではないか。熱くなっても焦げても張り裂けても病気ではないが、恋の病である可能性は否定できない。

「胸に秘める」「胸の内を明かす」「胸をふくらます」「胸がいっぱいになる」などもよく使われる。どうやら胸は、大切な感情をしまっておく入れ物でもあるようだ。「胸に手を当てる」とは、その入れ物と向き合い、ひとりでじっくり考えること。よくよく考えてみて不安がなくなれば、ようやく「胸のつかえが下り」、「胸を撫で下ろす」ことができるというわけだ。
胸はメッセージを伝えやすい
他人の胸の内は見えないけれど、カラダとしての胸(=首と腹の間の部分)は、向き合って話をすれば、自然と目に入る場所にある。だから名札は胸につけるのだろう。左胸につけるのがルールとされるのは、十字軍の戦士が心臓を守るために左手に盾を持って戦い、命をかけた英雄の証としての勲章も左胸につけたことに由来するのだとか。現代の服装事情では、胸に名札をつけるのはなかなか難しく、イベントの受付などでクリップと安全ピンのついた名札を渡されるたびに、どこにつけようかと途方に暮れてしまうのだけど。

しかし、たとえ名前が書いていなくても、胸についているものは何らかのメッセージとなり、相手の記憶に残るのではないか。映画化もされた綿矢りさの小説『勝手にふるえてろ』を読んだときにそう思った。この小説に登場する営業部の男子は、経理部のヨシカに恋をする。彼女が営業のフロアにやってきたとき、制服のブラウスの胸のところに「赤いふせん」がついていたのを見つけて、目を離せなくなるのだ。

ヨシカにしてみれば、決算で多忙な中、振替伝票をファイルするときに使うポストイットが、たまたまくっついてしまっただけなのだが、胸だったから運命の出会いになったのだろう。顔や背中についていたら、笑われただけかもしれない。
美しいものを胸に!
実は、私にも似たような経験がある。某出版社の打ち合わせに行ったときのことだ。男性編集者Mのセーターの胸のあたりに「透明な何か」がついているのを私は見つめていた。やがて出席者の一人に「何かついていますよ」と指摘されたMは、「きのうの夜食べたクッキーかな」とつぶやき、無造作に胸からそれをはがし、捨てたのだった。

おそらくクッキーの透明な個装袋の接着剤がセーターにくっついてしまったのだろう。となると彼は昨夜、会社でクッキーを食べ、個装袋を胸につけたまま徹夜をして今に至るのか? 今の時間(夕方だった)まで社内の誰も気づかなかったのだろうか? いや、昨夜食べたクッキーの個装袋がデスクに残っていて、今さっきセーターにくっついたばかりなのか? ぐるぐると思考が巡り、もはや私は打ち合わせに参加していなかった。以来、Mのことが気になってたまらないのである。

胸に赤いふせんや透明な袋がついているだけで、ほかの誰かの胸をときめかせる可能性があるという事実。ならば、もっと美しいものがそこにあったらどうなることか! 胸もとにアクセサリーをつけたり、デコルテの見せ方に気を配ったり、ブラジャーでバストを演出することは、想像以上に大事なことなのだ。

相川藍(あいかわ・あい) 言葉家(コトバカ)。ワイン、イタリア、ランジェリー、映画愛好家。
好きなネット用語は「パンくずリスト」。自分が今どこにいるのかを示す階層表示のことだが、ヘンゼルとグレーテルが森で迷子にならないよう通り道にパンくずを置いていったエピソードに由来すると知り、キュンとした。

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