KCIの収蔵品にみられる技法や素材の原点を求め、各地を訪れます。
[今回の手がかりとなる収蔵品]

1775年(素材:1760年代)
フランス製
京都服飾文化研究財団所蔵 畠山崇撮影
本品は18世紀フランスの典型的な宮廷服「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」。外側のローブ、胸当て部分のピエスデストマ(英:ストマッカー)、内側のスカートにあたるジュップ(英:ペティコート)の三部形式で構成される。
2018年の春、ニューヨークのメトロポリタン美術館で開催された展覧会「ヴェルサイユへの訪問者たち(Visitors to Versailles)」を観覧した人々は優雅な気分に浸ったことだろう。というのも、ここに展示された作品は、17世紀から18世紀末までにヴェルサイユ宮殿を訪れた人々にまつわる煌びやかな物品や、そこで彼らが目にしたであろう宮殿の豪華な調度品や献上品の数々だったからだ。その出展品のなかにはKCIが所蔵する宮廷服(ローブ・ア・ラ・フランセーズ)も含まれていた。

豪奢な宮廷服を着た訪問者
18世紀後期に製作されたこの宮廷服には、当時、欧州で最高級の絹織物を産出していたリヨン製の生地が使われており、その緻密な織柄が見どころの一つとなっている。生地の基部にあたるアイボリーの部分は、細い横畝をふっくらと織りあげた「カヌレ」と呼ばれる精巧な組織で、その上に色とりどりの花束やリボン状の毛皮柄が丹念に織り出されている。それぞれの絹糸は撚りが強いものや撚りがないもの、けば立ったものなど一様ではなく、間近に寄って初めて見えるほどの凝りようで、贅沢というほかない。本品の生地幅は53㎝なので、一着を製作するには25メートル程度の生地が要る計算になる。生地代だけでも莫大な費用がかかったことだろう。まさに宮廷に相応しい一着だ。
この宮廷服を着た「ヴェルサイユへの訪問者」がその門をくぐったのは1775年のこと。20代半ばの若きマリー=ルイーズ・ペティノーは、夫のクリストフ=フィリップ・オーベルカンプのお供として宮殿の女主人、王妃マリー・アントワネットに拝謁するという栄誉に浴した。豪奢な本品に身を包んだマリー=ルイーズの佇まいは、宮殿をいっそう華やかにしたことだろう。

トワル・ド・ジュイの隆盛
クリストフ=フィリップ・オーベルカンプ[1738-1815]は、1760年にヴェルサイユ近郊の小さな街、ジュイ=アン=ジョザスに設立した綿生地用のプリント工場経営で成功し、一代で大きな財を成した。(オーベルカンプの起業に至った経緯や、その時代背景は前回をご覧いただきたい。) そのプリント生地は、多彩かつ鮮やかな動植物の図柄が特徴で、街の名にちなみトワル・ド・ジュイ(ジュイの布)と呼ばれた。
流行に敏感なフランスの女性達を中心に、たちまち欧州で人気となったトワル・ド・ジュイは、一起業家にすぎなかったオーベルカンプ夫妻を起業からわずか十数年で王妃の目通りへと導いた。王妃もまたこのプリント生地に魅せられた一人だったのだ。謁見の際、王妃はねぎらいの言葉をかけたのか、はたまた生地の注文をしたのかは定かでないが、王妃のお墨付きを得たトワル・ド・ジュイの勢いは止まることを知らなかった。創業時にはわずか数万リーブルだった売上額は1786年には約67万リーブルに達し、フランスのみならず欧州各地への輸出品として大いに隆盛したのだった。
![左:クリストフーフィリップ・オーベルカンプ[1738-1815]右:マリー=ルイーズ・ペティノー[1751-1782]](../entry/image/kci_201007_1000_04.jpg)
右:マリー=ルイーズ・ペティノー[1751-1782]
ドイツ生まれのオーベルカンプは1774年、卸売商人の娘、マリー=ルイーズ・ペティノーと結婚。1790年にはジュイ=アン=ジョザスの初代市長に選出された。


オーベルカンプの新たな試み
トワル・ド・ジュイ工場の創業時、欧州ではインド製のプリント生地「インド更紗」が流行の絶頂だった。オーベルカンプは当初この木版プリントの技法を模倣していたが、次第に独自の表現や技法を編み出し、フランス好みの図柄を生み出していった。現在、その過程はジュイ=アン=ジョザスにある「トワル・ド・ジュイ美術館」で詳細に知ることができる。
同館の展示によると、オーベルカンプはインド更紗特有の木版の面による図柄に飽き足らず、版木に鉄板や釘を打ち込み、細い線や小さな点による文様を作り出す技法を試みた。そのヴァリエーションのなかには、小さな釘を線や文様としてびっしりと打ち込んだものや、あらかじめ文様を彫金したパーツを一つの版木に寄せ集めたものなど多岐にわたっている。オーベルカンプの工場ではこうした版木を用い、それぞれ手押しで生地にプリントしていった。この手法により、木版の文様ならではの大らかさに微細な表現が加わり、トワル・ド・ジュイのオリジナリティが明確になっていった。


さらに1770年からの銅版の導入がトワル・ド・ジュイの名を世に広めることになる。図案家に迎えた画家、ジャン=バティスト・ユエが描く人物や田園風景は、銅版の特性を活かした線描が特徴で、まるで細密画のようだ。1797年には銅版ローラーによるプリント技術を導入し、一日に4〜5千メートルものプリントが可能になった。これは版木で手押しプリントした場合、一日に40〜50人の職人の手が要る計算になり、いかに革新的な技術だったかが窺える。量産体制になっても安定的な品質を保ったのは、オーベルカンプの染料や生地といった材料への並々ならぬこだわりがあったからだ。
フランス革命を経て、時代が王侯貴族社会から市民社会へと変貌してもなお、トワル・ド・ジュイの勢いは衰えず、時の権力者ナポレオン1世の妻、ジョゼフィーヌや二番目の妻マリー=ルイーズもまた、トワル・ド・ジュイに魅せられ、愛用していたという。
![銅版のローラーによるプリントの仕組み(図作成:坂田佐武郎[Neki.inc.])](../entry/image/kci_201007_1000_09.jpg)


時代を超えるトワル・ド・ジュイへの憧れ
こうした輝かしい歴史に幕が閉じられたのは1843年のことだった。すでに創業者のオーベルカンプは世を去り、景気の悪化や流行の減退など様々な要因が重なり、工場は閉鎖へと追い込まれた。現在では、工場だった建物はほとんどが取り壊され、当時の様子を知るには美術館のジオラマ展示だけになってしまっている。しかし、トワル・ド・ジュイ独特の温かみある図柄は今日も幾つかのメーカーの手で復刻され、今なお愛好者が後を絶たない。

時代をもう一度、18世紀まで巻き戻してみよう。オーベルカンプ夫人、マリー=ルイーズが拝謁の際に着たドレスは、トワル・ド・ジュイ製のものではなかった。というのは、フランス宮廷の公式の場では絹製の衣装の着用が定められていたからだ。そのような決まり事に窮屈な思いをしていた王妃マリー・アントワネットは、宮殿敷地内に疑似農村「ル・アモー」を作らせ、そこに引きこもるようになっていった。そこでは思う存分、綿製のドレスを着て生活を楽しむことができた。トワル・ド・ジュイ。それは王妃にとって癒しの象徴だったのかもしれない。
[訪問した美術館]
トワル・ド・ジュイ美術館 (Museé de la Toile de Jouy)
54, rue Charles de Gaulle, 78350 Jouy-en -Josas, FRANCE
http://www.museedelatoiledejouy.fr/

© The Kyoto Costume Institute
(KCI広報誌『服をめぐる』第12号 2019年3月発行より)
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